タレントの萩本欽一さんの名言や考え方から生き方を学ぶ。

萩本欽一(タレント)の名言・格言【有名人から学ぶ生き方のヒント】

萩本欽一(タレント)の名言・格言【有名人から学ぶ生き方のヒント】

 

【人物紹介】
萩本欽一(1941年~)。
コメディアン、タレント、司会者、ラジオパーソナリティー、演出家。
日本野球連盟茨城ゴールデンゴールズの初代監督でもある。
1970年代〜1980年代に、「なんでそーなるの!」というギャグや、「欽ちゃん走り」
と言われる独特の走り方(原点は師匠の東八郎)など体を使った笑い、
さらに素人および素人っぽさを残す才能を開花させたり番組でユニットを
作り曲を出すなど現在のバラエティの基本となるものを開発。本人によると
「演技のボケは難しいから、素人を連れてくる方が簡単」。
後に普通に使われるようになった「ウケる」(ややウケ、バカウケなど)という言葉も、
最初は『欽ちゃんのドンといってみよう!!』から広まったとされる。また、「天然ボケ」
(略して天然)を初めて使ったのも欽ちゃんであるとされている。
熱海で考案したコント「机」を売り込もうと帰京したところ、たまたま坂上二郎から
電話が掛かってきて会うことになり、その際、萩本が「机」のあらすじを語ったところ
坂上から「そのコントは俺と欽ちゃんで演じた方がいいのでは」と提案されたのが
きっかけとなり、一回の舞台契約だけで、1966年、「コント55号」を結成。
なお萩本は帰京後すぐにそのまま劇場にコントを売り込むつもりでおり、帰京
直後というタイミングで坂上からの電話がなければコント55号の結成はなかった
と後年語っている。
コント55号で人気絶頂期の頃の1971年、『スター誕生!』の初代司会者
(司会は初めての経験)としてソロ活動を始める。翌1972年には『欽ちゃんの
ドンといってみよう!!』が開始。聴取者からのハガキ投稿が基本の番組で人気が
上昇、1975年に『欽ちゃんのドンとやってみよう!』として公開テレビ番組となる。
当時同局で司会を担当していた『オールスター家族対抗歌合戦』(1972年〜
1986年、ただし萩本は1984年6月限りで司会を降板)で編み出したともいわれる、
ゲストの家族や素人出演者へのツッコミぶり(いわゆる「素人いじり」)は、
「欽ドン!」では素人主体で結成された「欽ドン劇団」や、ロケ先で道行く人々を
も巻き込み大きく開花し、後の番組においても一連の素人扱いぶりは天才的
な至芸を極めた。 以降、間を置いて1981年には『欽ドン!良い子悪い子普通
の子』シリーズが開始。(最高視聴率38.8%)1976年から始まっていたホームコメ
ディのテレビ朝日『欽ちゃんのどこまでやるの!?』(欽どこ)は、最高視聴率42%を
記録する。『オールスター家族対抗歌合戦』(最高視聴率28.5%)と高視聴率
番組が続き、各番組の合計した視聴率の数字から「100%男」の異名を取る。
これらの番組から人気芸能人が生まれ、彼らは「欽ちゃんファミリー」として巣立った。

 

気が弱くてあがり症で「辛いなぁ」と思っていた小学校時代も
貧しい暮らしから「抜け出したいなぁ」と思っていた中学高校時代も
「向いてないなあ」と思いながらコメディアンの修行をしていた時代も、
夢があったから踏ん張ってこられた気がします。

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今思うと人生の節目には必ず恩人に出会えた事も大きかったですね。
人を笑わせる事の楽しさを教えてくれた先生や大人ってかっこいいなって
思わせてくれた人、テレビ局のスタッフや野球関係者の皆さんなど、
これまで多くの人たちに助けられてきました。

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つくづく思うのは素敵な人はいい言葉を持っている事。
仕事場でも家庭でも言葉って凄く大事。
いい人に出会う事はいい言葉に出会う事でもあるんです。

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自分が辛い時困った時、誰かの言葉で立ち直ったりヒントを
もらう事ってありますよね。自分が言葉を磨いていれば悲しん
でいる人に力をあげられるかもしれない。だから夢に向かって
進みながら言葉は一生磨いていたいなと思っています。

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子供だって相手の目を見ればわかるんです。言葉が怒っていても
目は怒っていないとか、この目はもうすぐ怒りそうだぞとか、目には
感情が丸見えになってる。だから気が弱かったり、いじめられた
経験がある子の方が人を見抜く力がつきます。

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僕が小学校の高学年になる頃からうちはどんどん貧乏になっていきました。
親父がやっていた事業がうまくいかなくなってね。入学した高校では革靴が
規則だったけどその靴さえも買ってもらえなかった。仕方なく運動靴で
登校すると毎日先生が怒るんです。理由も聞いてくれない。
そんな時にある日、母親がこんな事を言ってくれました。
「欽一も随分辛い目にあっているね。でも神様はきっと見ててくれるわよ。
あんなにひどい目にあわせちゃったからって、神様がそのうち欽一を
有名人にしてくれるんじゃないの?」その頃コメディアンになりたいと
思っていた僕は母親の言葉でちょっとわくわくしました。
だから僕、今こう言いたいの。
辛い思いをしてる子こそ未来のスーパースターだって。

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僕は夢を追いかけてる人生が好きなのね。
子供の頃から「こうなったらいいなぁ」っていう夢がいくつもあった。
つかまえられそうな所にある夢を目指しながら苦労して走ってる
時が最高なんです。その気持ちを何度も味わえるように夢は
あんまり高い所に置かない方がいいような気がするな。
夢って少し低い場所に置いた方がいいんじゃないかな。

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ある日、母親から「字は人のために書く」と教わりました。
欽一が書いた作文を読むのは先生。
手紙を書いたらその字を見て郵便屋さんが届けてくれる。
字が汚いと人に迷惑が掛かるから綺麗に書く必要があると。

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ある日、学校から帰る途中で八百屋さんを見かけたので
後ろから大八車を押してあげたら別れ際に「ありがとうな、坊や」
ってリンゴをくれたの。僕としてはいい事をしたって思うじゃない。
だから家に帰って得意げに母親に話したんです。でも母親は
喜ばなかった。「欽一、人様から物をもらったら親切にならないのよ。
そういう時はきちっとお断りしなさい。リンゴをもらわないで押せば
もっといい子だったのに」と言われました。子供の頃はそういわれても
納得できなかったけど大人になる頃にこの事がなんとなくわかりました。
簡単にリンゴをもらっちゃうと次からはリンゴが欲しくて大八車を
押すようになると困るっていう意味もあったのかなと。

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勉強ができるかできないかなんて、
その時の環境次第かもしれない。

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嫌われない方法は自分で考えるしかないよね。

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当時は気弱な性格であがり症でしたが中学の授業中に何気なく
言った一言でなぜかクラス中が笑い声でどっとわいたんです。
その時に「人を笑わせるのっていい気持ちなんだ」と思いました。
この時初めてその快感を覚えた瞬間でした。

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中学、高校時代の思い出って辛い事が多いんです。
一番つらかったのは夜中まで家に帰れなかったことかな。
「今日から1週間夜11時前に帰ってきちゃダメよ」ある日、
母親にこう言われました。借金で税金も払えなくなって家に
人がいると税務署員に家財道具を差し押さえられるから
家族全員夜中まで留守にしようっていうわけ。
夕食代はもらってましたけど僕は何も食べず、そのお金で
映画を見てました。映画を見ると帰りの電車賃もなくなって
真冬の寒い道を1時間半も歩いて帰らなくちゃならない。
てくてく歩いていると悲しくてね。貧乏って辛いなと思って。
でもこの1時間半が全然苦にならなかった日があったのね。
チャップリンの「モダン・タイムス」を見た日でした。
夕飯も食べてないのに心が満たされてたんです。
あの日からチャップリンがめちゃくちゃ好きになった。
辛さを忘れさせてくれるコメディアンっていいな、僕も
なりたいなと思った。現実が凄く辛かったから夢見る気持ちが
生まれたんだろうね。だから悲しい思いをしている子はきっと
いつか夢にたどり着くと思う。
辛い目にあってる子の方が夢に近い所にいると思います。

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友達の思いやりには何度か泣きそうになりました。
三人の友達と映画を見に行った時、お金もないくせに
僕が全員の入場料を払った事があったんです。
「俺アルバイトしてるから皆の分も出すよ」なんて僕が
カッコつけたら三人は気まずい顔して黙ってました。
みんな僕の家が貧しいのを知ってますからね。
そのうちの一人は後でこう言ってました。
「萩本がバイトしたお金で映画を見るのは申し訳ないと
思ったけど、ぐっと堪えたんだ。だってそうじゃないと萩本を
貧乏人扱いする事になっちゃうだろ。だから今日は萩本の
お金で映画を見ようと思ったんだ」この時も僕泣きそうになったね。
そいつはいい奴でね、時々僕を自分の家に連れて行って飯まで
食わせてくれた。その時も僕に惨めな思いをさせないように言うんですよ
「俺さ、お前が貧乏だから食わせてるんじゃないぞ。うちのお袋は
料理が好きだから友達にも食わしてやりたいと思って呼んだの。
だから負担に思うなよ」こんないい奴は滅多にいないよね。
茂木っていうこの友達、のちに弁護士になったんだけど癌に
かかって30歳くらいで死んじゃったの。
もっと付き合いたかったけどね。
友達の思いやりって一生の宝物です。

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僕が通っていた高校は男子校でお金持ちの息子が多かった気がします。
例えばね、マラソン1位から4位の生徒ってみんな金持ち。学校から出て
先生が見えなくなるとタクシー乗って先回りしちゃう。もちろん一緒に
走ってた生徒にはバレますよね。「あいつら卑怯だよな。許せねぇ。
先生に言いに行こう!」当然こう言う生徒が出てくるわけ。でも僕は
そう言った生徒の方が嫌でしたね。だからこう言ったの。「いいんじゃないの?
金で1位を買うのもありだと思う。そこまでして1位を取りたいなんて立派。
それをわざわざ先生に言いつけようとする方が卑怯なんじゃないかな。
そういう正義の味方ぶる人間、俺は嫌だね。1位でゴールインするって
快感だもの。俺だって金があったら、そうしたかもしれない。でも俺は金がない。
ないから頑張ろうっていう気になるんだよ」僕はこの時、貧乏な自分というのを
ちゃんと引き受けなくちゃって思ったの。何もないから頑張るんだよって、
ちょっと意地になりました。

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高校卒業後、僕は東洋劇場に入ってコメディアンの修行を始めました。
でもあがり症で全然才能無くて演出の先生から「クビ」を宣言されたんです。
「早い奴は1週間、遅い奴でも1ヶ月後にはコメディアンらしい雰囲気や
笑いのセンスを見せる。珍しいよ、お前は。3か月も経つのにコメディアンの
気配も漂わない。お前、向いてないと思う」思わず納得して
「はい、自分でも無理な気がします。今月いっぱいでやめます」
本当はやめたくなんかないのに、ついこう答えちゃった。
そしたら僕の師匠に当たる人が演出の先生にかけあってくれました。
後で演出の先生に聞いた話では師匠はこう言ってくれたそうです。
「あいつをクビにしないでくれ。才能はないけど「はい~っ!」って
あんなに気持ちのいい返事をする奴はいない。あの返事だけで
ここに置いてやってくれ」この話をしてくれたあと、演出の先生は
こう言ってくれました。「この世界で大事なのは、上手いとか下手
とかじゃない。お前のようなドンケツを劇場のトップが「やめさせないでくれ!」
って言ってきた。これが芸の世界では大事なんだ。あいつを応援したい、
助けたいって思わせたんだからお前きっと一人前になるよ。
一人でも応援してくれる人がいたらやめるな。生涯やめるんじゃないぞ!」
もうねぇ、この言葉にはまいった。嬉し泣きしちゃった。
僕の場合はコメディアン修行だったけど、どんな仕事も同じじゃないかな。
向いていなかったり失敗したり、いろいろあるよね。でも一生懸命やって
いればきっと誰かが陰で見て、応援してくれている。
たった一人でもそんな人がいたら、やめないで恩返ししなきゃね。

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20代でやりたい事を我慢するのは辛いよね。「俺はこうしたい」
って事があると、どうしても焦って理論で突き進んで行っちゃう。
ところが現実が押し寄せてくると見事に崩壊していくんですね。
若い時って今認めてもらいたいって思ってるでしょ。
お利口で積極的な子ほど人の言う事なんか聞きたくない。
自分が入りたい会社があるのに「お父さんの都合で違う会社に
入ってくれ」って言われても「いえ、僕の人生ですから自分で
決めます」と言いたくなっちゃう。
でもね、若い時期に自分の意見を押し通すと運がやってきません。
僕なんか自分の意見が言えない子だったからコント55号時代は
マネージャーに言われるがまま「はい~っ」って言うだけだった。
内心は焦ってたんですよ。
「もう少し仕事を少なめにして一つ一つの仕事をもっと大事に
した方がよろしいんじゃないですか?」って言いたい気持ちを
何度も飲み込んでた。でそのうち、こう考えるようになったんです。
自分が人に言いたい事は塩漬けにしておいて、次の段階で自分が
実行すればいいや、20代は人に動かされるまま体だけ使ってようって。

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人生で1回だけ「死んじゃおう」って思った事がありました。
コント55号が急に売れてきた頃、週刊誌にデタラメな記事を
いっぱい書かれてね。それがあんまり酷いもんだから「死んで
抗議してやる!」って考えちゃったの。あの時の僕、尋常な
神経じゃなかったと思います。新幹線で熱海まで行って
そこからタクシーで錦ヶ浦まで行きました。
錦ヶ浦は切り立った崖で自殺の名所だったんです。
でも飛び降りるのが怖くなった。それで一瞬躊躇した時、
お世話になったテレビのプロデューサーと母親の顔が浮かんできたんです。
二人とも泣いてる顔だったんで「あ、死ぬの、やめよう」と思ったの。
この二人のためにもう1回頑張ってみようって。崖の上に立ってから
こう思うまで3分くらいかな。それで崖を降りたらタクシーが待っていました。
そう、僕、運転手さんに「ちょっと待っててね」って言って降りたんです。
その辺が矛盾してるよね。
でも後で考えたの。人間「死にたい!」と思った時は「生きたい!」
って心が叫んでるんだなって。今が辛いから他の状況で生きたいって
叫んでるんじゃないの?だから、やっぱり自分で死んじゃいけないよね。

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40歳になった時、大人になったと感じたと同時に、もう一つ気付い
た事があるんです。俺って大人になるための言葉が足りないやって。
今までは無責任な事を言っても曖昧な言葉で語っても周りの人は
許してくれた。でもここから先、また新しい夢を追いかけながら50代に
向かうために、もっとしっかりした言葉を持ちたいと思いましたね。
そのためには勉強だ。そう思って僕、40代で河合塾に入学したんです。
いいですよ~、40歳を過ぎてからの予備校。先生もいい人でね。
子供の頃聞いたら絶対わからないような話もわかるから勉強が
凄く楽しかった。言葉ってとても大事なんです。

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テレビ番組をやっていた頃、僕は出演者を選ぶ時に必ずこう聞いてました。
「あなたの欠点は?」普通は良い所を探すでしょ?僕は欠点を探してた。
人間って欠点は隠そうとするのね。でも、とてつもない優れた事ができる時って
その人の欠点が花開いた時なんです。実は僕もそうだったの。あがり症で、
きちんと物事を進められない僕が司会なんかやらされて、それが当たっちゃった。
その時、誰が一番びっくりするってやった本人なのね。
だから本人がびっくりするような仕事をさせてあげればいいんだよね。
欠点というのは、その人の数少ない個性の一つなの。
欠点が綺麗に転がるとその人のキャラクターになるんです。

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「どうしてこの仕事してるの?」僕はよく出会った人にこう聞いて
るんですけど、たいてい「好きだから」とか「得意だから」って答えますね。
だけど僕の場合「こんな仕事だけはやりたくない」っていう仕事が
次々ときちゃった。司会の仕事もそう。「僕、司会はできないから
司会だけはやりたくない」事務所にそう言ってたのにコント55号を
解散したら司会の仕事ばっかり頼まれるの。不思議だよね、
世の中って。初めて司会をしたのは「オールスター家族対抗歌合戦」
という番組だったんですけど、やっぱり苦手。出場チームの名前も
忘れちゃって「次のチームはえ~と、誰だっけ?」こんな感じ。
ところが、これがウケちゃったの。「あんな新しい司会はない。
ぜひ、うちの局でもやってください」って仕事の依頼がたくさん
来ちゃった。苦手なものほどチャレンジしてみると「運」が
ついてくるのかもしれないですね。

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自分で自分の才能を信じて行動するのって一番運が向かな
い事かもしれない。運っていうのは自分の好きな所や得意な所
にはないと、僕は思ってます。以前、僕と一緒に番組をやった
ディレクターが営業部に異動した事がありました。本人は全然
納得してないの。「バラエティー番組を作りたくてテレビ局に
入ったのに、なんで俺が営業に行かなきゃいけないんだ」って
怒ってました。でもその人、どんどん成績を伸ばして営業部で
出世しちゃった。営業がとっても向いていたんです。
つまり才能って自分で決める事じゃないんだよね。
それを見抜くのは自分以外の人間。だから納得がいかなく
ても人に言われた事を素直に一生懸命やった方がいい。
世の中って自分の思い通りにはいかない。
でも、その思い通りにいかない道に実は運が落ちてるんだよね。

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「この道は安全です」って言われると、ちょっといい感じがするよね。
だけど安全な道を歩いていても成功は落ちてない。安全な道には
失敗もない代わり成功もないんですよ。特に「大成功」は危険な道に
しかないの。危険な道には罠もいっぱいあって、ちょっと進むたびに困難に
出会うでしょ。でもね、人間って困ると立ち止まってしっかり考えるんです。
だから困った時って普段は全く気が付かないスーパーアイデアが出てきたりする。
そこから大成功に繋がるんです。何年か前「プロ野球を1リーグ制にしよう」
っていう話がありましたよね。みんなが反対して結局2リーグ制のままに
なってるけど、あの時、僕は「いいねえ、1リーグ制!」って言ってたの。
なぜかっていうと1リーグ制になると困る人がいっぱい出てくる。
その人たちが一斉に考えるとプロ野球がとてつもなく面白くなるんじゃ
ないかなと思ったんです。困難を恐れると運も逃げちゃいますね。
「困った、困った」って立ち止まったまま、くよくよしてる人に成功はやってこない。
「さぁ困った。でも困ってばかりはいられない。いや、困ってる今が最大の
チャンスかもしれない」そう考えて危険な道をぐんぐん進んじゃう人にしか
大成功の喜びは味わえないんです。

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運命を大きく変えるような日って誰にでもあると思います。
僕の場合、コメディアンになって何年も経たない頃、熱海から
浅草に戻って来た日がそのうちの一日でした。下宿先の
お豆腐屋さんに戻って来た途端「もしもし~」って電話をしてきたのは
坂上二郎さん。僕と二郎さん、その頃から親しかった訳じゃないんです。
それどころか、お互い「あいつとだけは組みたくない」って思ってた相手だったの。
東洋劇場の上にあったフランス座で何度か共演した事があったんですが、
両方とも自分が目立ちたいもんだから相手を潰し合ってました。
もう意地になってぶつかり合って火花パーチパチ。僕にとって二郎さんは
相棒じゃなくて最大にして最強のライバルだったんです。そんな二郎さんが
なんで電話してきたかっていうと「暇だからマージャンでもやんない?」って、
それだけ。で、マージャンやりながら僕が熱海で考えたアイデアを話してたら
「欽ちゃん、それ面白いよ。一緒にやんない?」だって。
僕が考えたのは一人でやるコントだったけど二郎さんが手伝う事になっちゃった。
これがコント55号の始まり。最大のライバルが僕にチャンスをもってきてくれた
ようなものですね。二度目にチャンスをくれたのはテレビ界の人たちでした。
まだコメディアンがゴールデンタイムに進出していなかったし、コメディアンの
名前が付いた番組もない時代でしたけどテレビ界には優れ者がたくさんいて、
その人たちが僕にチャンスをくれたんです。

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世の中の皆がいいと思っているような家族って僕はあんまり魅力を
感じないのね。それで我が家の家訓はこれにしました。
「人生、無駄にこそ価値がある」三人の息子たちにも自由に
育ってほしかったんです。ところが長男は高校の時「大学に行って、
そのあと銀行に就職したい」なんて言い出したから、がっかりしちゃった。
普通に考えれば平凡でいい子なんだけど、つまんないよね。
だからこう言ったの。「大学へ行くのはいいけど、その後は大学生活が
無駄になるような職業に就いて欲しい」そうしたら長男「わかった」
って素直に言って大学を卒業してからお弁当屋さんに就職しました。
次男は面白かったですよ。
予備校に行った後、受験しないで就職しましたから。
「お父さんに言われたように予備校生活が無駄になる道を選んだ」
って言うから「最高の人生だ!」って褒めたの。三男はもっと面白くて
アルバイトでお金がたまると世界中を放浪してました。
子供たち全員、やってきた事が無駄になるような人生って
僕は嬉しいんだけど、奥さんは呆れています。
「うちの家族ってみーんな頭がどっかおかしい」ってよく言ってます。
うちでは奥さんだけがごく普通なの。
だから僕はいつも奥さんの言葉で世間の基準を勉強してるんです。

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僕の母親は良いところのお嬢さんだったらしいんです。
高松で昔の高等女学校を卒業した後、地元でタイピストを
してたって、僕の兄が教えてくれました。父親も高松の出身で
上京してカメラ関係の仕事をしていた時、故郷でお見合いを
する事になったんです。ところがお見合い相手の家を訪ねたら留守でね。
玄関口に立って困っていたら声を掛けてくれた人がいたんですって。
「おとなりさんは今お留守ですよ。帰ってくるまでうちでお待ちしたら
いかがですか?」そう言って家に招き入れたのが父親のお見合い
相手の隣に住んでいた母親。結局父はお見合い相手より隣の
お嬢さんだった母親を見初めて、求婚しちゃったんです。
結婚した当時、父親の仕事はうまくいっていたんですが、
その後は結構悲惨だったみたい。お嬢さん生活しか知らなかった
母親も遅々と結婚して東京に住んでからは生活が苦しくなる一方。
6人の子供を抱えて、相当苦しかったと思いますね。
僕は6人兄弟の下から2番目だから僕を育てる頃はおっかさんも
かなり疲れていたはず。それなのに、よく投げ出さず手抜きしないで
育ててくれたよね。僕には恩人もたくさんいますけど、大事な事の大半は
おっかさんから教わった気がします。いい母親の子供として生まれてくるって、
それだけで幸せだよね。

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いかがでしたか。
参考になる考え方はありましたか?
同じ人物内やジャンル内でも今後更新して
増やしていきますので、また見に来てくださいね♪
僕も毎日お寺で修行中ですよ。

 

 

 
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